松浦理英子の作品を読むのは何年ぶりだろう。
はじめて『ナチュラルウーマン』を読んで衝撃を受けて以来、すっかりお気に入りの作家さんなのに、この作品は何故だかしら読み残していたのだ。
ある方に「お読みになられましたか?」と尋ねられ、未読だったことに気がつき慌てて読んでみた。
裏ヴァージョン
家賃代わりに差し出される短篇小説と、それに対して辛辣コメントを浴びせ続ける家主。
やがてコメントは作家の精神を抉るような質問状となり、青春をともに過ごした2人の中年女性の愛憎が垣間見えてくる。
小説を書くのは鳴かず飛ばずの作家・昌子で、その読み手は昌子が居候する家主で20年来の友人・鈴子。
小説を介して、お互いの感情をぶつけ合う2人の切なさとおかしさを、現実世界と小説世界が入り交じる奇抜な手法で描いた著者の異色作。
アマゾンより引用
感想
一応、小説の形になっているがエッセイ色が強いように思った。テーマが絞られているので、セクシャリティ系の問題に興味のない人が読んでも、とんと面白くないように思う。
その上、遊び要素が強いので、作者のファンでなければ、読んでも面白くないのではないか思う。
特に前半は、アメリカが舞台で登場人物もアメリカ人。文章も翻訳調になっていて、普通の小説を期待して読むと、ガッカリするのでだろう。
「アリス・ウォーカーへのオマージュ的作品」があると聞いていたのだが、なるほど納得。アリス・ウォーカー好きなら読んでいて損はない。たぶん作者もアリス・ウォーカー好きだと思われるので。
良い作品だとは思わなかったが、私はけっこう面白かった。
特に主人公の妄想癖というか、空想癖が「ああ。分かる、分かる」という感じがして。
私も学生時代は妄想遊びが大好きだった。妄想は非生産的でじつにクダラナイ遊びだが、お金も手間もかけず簡単に楽しめる娯楽でもあるのだ。
『小公女』セーラ・クルーも『赤毛のアン』の、アン・シャーリーも妄想を朋として、愉快にも逞しく暮らしていたものなぁ。妄想は、愉快に生きていくための、一種独特の技術と言ってもいいかも知れない。
通学途中にあるゴージャスな庭のお屋敷を見て「あの家には庭師がいるよね。で、庭師の名前は源三。通いのお手伝いさんは竹村さん。あの蔵には気の触れた出戻り娘が閉じ込められていて、母屋には、その娘の産んだ4歳になる少女が、冷たい祖父母と暮らしている訳。でも、蔵に閉じ込められている娘の弟(少女の叔父さん)だけは少女に優しくて……」などと、友人と馬鹿げた妄想話をしていた頃のことを思い出してしまった。
久しぶりに面白かったけれど、文体になじめず、やや消化不良な感じがした。
久しぶりに『葬儀の日』あたりから松浦理英子の作品を再読してみようかと思う。