恐ろしく視野の狭いエッセイ集で、途中で投げ出してしまおうかと思うほどだった。
「京都ドリーム」とでも言ったらいいのだろうか。京都について、必要以上の憧れや夢を持って書いているのはいいのだけれど、どうにも偏狭過ぎて不愉快な感じ。
京都スタイル
京都人は、心の底で上に立ちたがる者を見下し、企業のいうことは眉唾と思ってかかる文化を持っている。
お仕着せの生活スタイルなど相手にしないしたたかさを持っている。日本人は、どんな暮らしを幸せと思う感受性を持っているのだろう。答えを京都スタイルに探る。
アマゾンより引用
感想
地方色や県民性ってのは、あると思うが、作者が書いている京都人気質というのは「京都市内に住むブルジュアまたはエグゼクティブな京都人」限定としか思えない。
言っちゃあなんだが京都だって広い。町屋の並ぶ「京都らしい町」だけが京都ではないし、そこに住む人だけが京都人でもない。
私は大阪で暮らしているが、ひとくちに「大阪人」と言っても、北と南では言葉遣いも、人の気質も随分と違っている。
また「これぞ京都人の気質」と書いていることでも、そうでなかったりする事が多いのも辟易した。何んでもかんでも「京都の個性」とこじつけてしまうのはどうだろう。
浜田由利が感心している「洗い替え」や「値打ち無い」という言葉は大阪でもよく使うし、奈良県でも通用する。
それが関西という地域で根付いているものなのか、それとも全国的なことなのかは分からないけれど「京都特有」でないことだけは確かだ。
エッセイを書く人間なら、もうすこし広い目で物事を見た方が良いのではないだろうか。
住宅論にしても、食べ物論にしても、浜田由利が書いているのは京都市内に住む経済的に恵まれた極一部の人達の価値観かと思われる。
1つの物事を好きになる、あるいは「ハマる」というのは素晴らしいことだと思う。
しかし、それが信仰になっはいけないと思うのだ。自分が信仰しているものだけが素晴らしいのだと勘違いしてしまいがちだし、何よりも過ちに気づかなくなってしまうのが恐ろしい。
偏狭なエッセイだからといって一概に悪いわけではない。偏狭なエッセイだかろこそ面白いという場合もある。
中島らものエッセイなどは、彼独自の解釈による大阪論を強引に展開しているが、あれはあれで面白いし。
この作品を読んで感じた反発は、新興宗教なんかにハマっちゃった人から、自分のハマっている宗教がいかに素晴らしいかと熱く語られた時に感じる反発と似ている。
何かの機会にポツリと自分の宗教観を語る人に反発は抱かないのに……である。考え方や、そのものが正しいかどうかということよりも、語る人間の成熟度が左右しているような気がする。
こんなに面白くないエッセイを読んだのは久しぶりである。
エッセイは小説よりも「当たり外れの幅」ように気がしていたが、そうでもないらしいってことを思い知らされた1冊だった。