先日、聖書の中の「マルタとマリアの話(ルカによる福音書10章38~42節)についての憤り」を日記に書いた訳だけど、それについて夫が面白い話をしてくれた。
夫は「白蓮さんが聖書に憤るのは分かるよ。でも、白蓮さんがムカつくのってヤンキーがたまに掃除したら褒められるのムカつく…みたいなところじゃないの?」と言った。
- ヤンキーがたまに掃除をしたら褒められる
- 若い頃にヤンチャしてたけど更生したヤンキーは褒められる
夫が言う通り、私はこの類の思考や流れが大嫌いだ。
だけど私も「ヤンキーを褒めることの必要性」については十分過ぎるほど理解している。掃除をしたヤンキーは褒め千切らなけばならないし、更生したヤンキーも褒め称える必要がある。
……何故か?
実のところ「たまに掃除するヤンキー」より「毎日掃除する真面目な人」の方が偉いに決まっている。
しかし掃除したヤンキーを褒めてやらないとヤンキーは2度と掃除をしないかも知れない。「良いことをするのは素敵だな」とヤンキーの皆様に理解して戴くためには掃除したヤンキーは褒めなきゃいけないし、さらに言うなら更生したヤンキーも褒め称える必要がある。
世の中が平和に進んでいくためにもヤンキーには更生して戴いた方が良いのだ。非ヤンキーな人たちはそれとなく、こちら側にヤンキー達を誘導していかねばならない。
「働かないマリアを認めることで働かない人達も『あ…こんな私でもイエス様は愛してくれるんだ?』って思えるんじゃない? マグダラのマリアの話なんかもそうでょ? 新約聖書はそういうところにフォーカスしているんだよ」と夫。
確かに旧約聖書の場合めちゃくちゃ分かりやすく悪い人や愚かな人は酷い目に合っている。だけど、それだと立派な人しか救われないし自己肯定感が低かったり、ちょっと道を踏み外した人の心は掴めないだろう。
「そこで新約聖書が登場する訳だよ」と夫。さらに「これは小乗仏教と大乗仏教の違いと本質的には同じだと思う」とも続けた。
- 小乗仏教→教えを守り修行した人だけが救われる
- 大乗仏教→あらゆる人や生き物が救われる
夫の説だと旧約聖書は小乗仏教で新約聖書は大乗仏教とのこと。なんだか、ようやく腑に落ちた気がした。遠藤周作も似たようなことを書いているけど、新約聖書は「駄目っ子ほど救われる世界」なのだろう。
悪い人や真面目に生きられない人を救い導くのが宗教の本質だと言われたら「ですよね~」としか言えない。
ヤンキーもヤクザ更生してくれた方が世の中が平和になるし、みんなが真面目に働いて互いを支え合う社会を作ることができたらハッピーですよね…って話だ。そう考えたら新約聖書で働かないマリアやマグダラのマリアがフォーカスされるのも納得出来る。
……とは言うものの。それでも、なお幼い頃に刷り込まれた記憶を塗り替えるのは難しい。
要するに表現の仕方の問題なのだ。
マルタとマリアのエピソードの場合、イエスがマルタの気持ちに寄り添いつつ「マルタよ。お前の言い分も理解出来るけれど…」とマリアの話に入っていたら、幼かった私も素直に受け入れることが出来たかも知れない。
「駄目っ子を救いたい」みたいなノリは理解出来るけど、だからって真面目に生きてる人間を引き合いにするのは、いかがなものか?
一時期『人は話し方が9割』って本が大ヒットしていたけれど、本は書き方が9割だと思う。