私は人生で1度も塾ってものに通ったことがない。
私の親は「女の子は勉強しなく良い」と言う考え方の人だったので、ピアノだの華道だのは習わせてもらったけれど、塾には通うことなく大人になってしまった。受験する年の夏休みに「夏期講習」に行かせてもらった程度。
一方、弟は…と言うと小学生の頃から塾に通っていた。塾に通っていたからと言って頭が良かった訳じゃなくて、Fラン大学と呼ばれる大学にさえ合格できなくて、最終学歴は高卒だ。
私はずっと弟や「勉強する気がないのに塾に行く子」を見て「勉強する気がないなら塾に行く必要はないんじゃないの?」と、ずっと思っていた。
だけど、大人になって子育てをして、福祉に関わる仕事をするようになってから「勉強する気がない子も本人が望むのであれば塾に行かせることは必要なんじゃないかな?」って思うようになった。
勉強する気のない子を塾に行かせたところで成績が上がるとは思っていないけれど、その子が大人になった時「自分は子どもの頃に塾に行かせてもらっていた」って思い出は、それから先の人生を生きていく上において大切なことだと思うのだ。
「小学生の頃から塾に行かせてもらったけど、まったく勉強しなかった。今にして思えば自分の家はたいして裕福でもなかったのに塾に行かせてもらってたんだな」
……みたいな話をしてくれた人は多いけれど「親に大事にされていた」って記憶を持っている大人は幸せだと思う。
その一方で「塾に行かせて欲しいなんて言えるような家じゃなかった。本当は私も塾に行ってみたかった」
…って話をしてくれた人は、なんだか少し寂しそうだった。
子ども…と言っても色々なタイプの子がいるので、ひとくくりでどうのこうのは言えないけれど、たとえ「やりたい」って理由が「みんながやってるから自分もやりたい」って言うような、浅はかなものであったとしても、親が子の気持ちを尊重して「みんなと同じことをさせてあげる」ってプロセスは大切なのだと思う。
突き詰めて言うと、子どもにとって大切なのは「愛され感」だと思う。
- 親から大事にしてもらった。
- 自分は親から愛されて育った。
…って記憶は大人になって生きていく上で、大切な心の拠り所になる。そして心の拠り所をたくさん持っている人は困難に直面した時に強い。
この理論は塾に限った話ではなくて他の習い事にも当てはまる。
ピアノも公文も書道もスイミングも極めることが出来る人なんてほとんどいない。それどころか大人になってから「私は○○を習っていたから進学(就職)の役に立ちましたドヤァ)」みたいな話もあまり聞かない。
親が子に習い事をさせる時、多くの親は子どもに「プロになって欲しい」とまで思っていない。「たしなみ程度に出来るようになれば」とか「友達ができたらいいな」とか「体力づくりに」と、ゆるい気持ちのことが多いと思う。
塾も他の習い事の延長として考えられたら良いのだけれど「塾は成績を上げる場所」って前提があるから、話が面倒になるのだろうなぁ。
勉強する気がない子の塾は直接的な成績アップに繋がらなくても意味がある…と私は思う。
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