もう、随分前に読んだ作品なのだが、ふと読みたくなって再読してしまった。
妖しげな12の店と、その店に係わる物と、その物に連なる話とを12個ばかり集めたエッセイ集である。
本の装丁は紫色のグラデーションがベースになっているのだが、なるほど紫という色は、この作品の色だと思えるような耽美かつ、ややアウトサイドな香が魅力的である。
蝶とヒットラー
鳥や獣の剥製を売る店から、義眼、黒色パイプ、ナチスの制服、昆虫、ステンドグラス、ドール・ハウス、貝殻を売る店など、幻想と妖かしの12店をたずね、黄昏の陳列棚に失われた時を求める、夢のまどろみにも似た玩物喪志譚。
アマゾンより引用
感想
12個の「物」というのは、日常生活における必需品というよりもむしろ特別な時に使う特別なものだったり、物は一生使わなくても生きていけそうな、こだわりの「物」である。
アンティーク家具・軍服・剥製・パイプ・ドールハウス・義眼……明るくてキラキラしたものに引き寄せられるのが人間ならば薄暗くてジメジメしたものに引き寄せられるのも人間なのだ。
バロック音楽が似合いそうな、耽美な文章が「物」を鮮やかに浮かび上がらせ作者の主張をも、鮮やかに表現している。
作品の中に『文化はバランスである』という一節がある。
『東京女子高制服図鑑』が売れるのなら『世界軍服図鑑』も求められてしくるべき。ファミコンをする子供がいるなら、野蛮な戦争遊びだってあって当然……作者は極端なものを例えとして使っているけれども「陽」のものが正しく「陰」のものが間違っているわけではないということだと思う。
潔癖なまでに、暗いものを排除した文化が、本当に健康的なのだろうか?たぶん答えはNOだと思う。どちらのサイドへ偏ってしまっても問題なのだが、どちらも受け入れるだけの懐の広さは必要だと思う。
極端な偏りの中に身をおくと、草臥れてしまっていけない。光と影が一対でしか存在できないようにバランスなくして、文化の成熟は成り立たないように私は思う。
理屈ばかりを書き連ねてしまったが、『蝶とヒットラー』は理屈はともかく面白いエッセイ集だ。
絶妙な平衡感覚と、危ういコダワリの世界に引き込まれることの楽しさは作者の文章が魅力的だからだと思う。
妖しく、耽美で、少し退廃的な世界に浸るのも楽しいと思える1冊である。