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涙の重さと心の熱さ。

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ちょい前に「私の職場は会議で泣く人がいる」って日記を書いたけれど、会議じゃなくても泣く人がいる。

私も私生活では涙もろいところがあるので、実のところ「泣く」ってことに関して否定的な意見は持っていない。例えば…だけど感動の涙とか、共感の涙は泣いているのを見ても「はぁぁ?」みたいには思わない。「感受性が豊かな人なんだな」とか「他者との共感度が高い人なんだな」くらいの認識。

会議で泣くタイプの人ではないけれど、感受性とか共感度が高い人に対してはむしろ「ああ…なんて心の熱い人なんだろう。私はそこで相手に寄り添って物事を考えられない」くらいに思っていた。なんだかんだ言って私もチョロいところがあるのだ。

先日、元通園児さんで卒園されたお子さんが亡くなった。

医療型児童発達支援センターってところは各種の障害を抱えているお子さんが通っていて、医療的ケア児も多いし、進行するタイプの病気を抱えているお子さんもいる。実際、日々接しているお子さんの中にも「この子は何歳まで生きられるんだろうな?」と思う瞬間がある。

先日、亡くなったお子さんは私が入職する前に退園されていて、訓練等で通園されていたそうだけど、私は顔を知らないし書類上で名前を知っているに過ぎなかったので訃報を聞いても正直、そこまで悲しい気持ちにはならなかった。もちろん親御さんの気持ちを考えるといたたまれない気持ちになったけれど。

流石に「元担任でした」って保育士や「訓練の担当者でした」という訓練士達は泣いていて「そりゃ泣くよね…」って話だ。私も自分が日々接しているお子さんが亡くなったら冷静ではいられない。

そんな場面でふと気づいたことがある。

亡くなった子のことを語りつつ泣いている人の中に「なんだかんだと、しょっちゅう涙している人」が含まれていた。私はそれまでその人のことを「心の熱い人」って思っていたのだけど、その人の泣いている姿を見て違和感を覚えた。

ちょっとした感動エピソードで泣いている姿と、人が死んで泣いている姿がほとんど同じノリなのはどういう事なのだろう?

普段気丈な人が堪え切れずに泣くのは理解できるし、日頃から涙もろい人が号泣するのも理解できる。

だけどなんかこぅ…感動エピソードで泣くとの人の死を知って泣くのとでは涙の重さと言うか質が違うと思うのだけど、どっちも同じノリと言うかテンションで泣くってのは何なんだろうなぁ。

私はその人のことを「心の熱い人で、他者に寄り添う能力の高い人」だと勝手に思い込んでいたけれど、もしかしたら単純に涙腺が緩いだけの人なのかも知れないな…と思ってしまった。

…と。ここまで書いてみて自分の性格の悪さに気付かされてしまった。私も意地の悪い物の見方をしちゃう人間なんだなぁ…と。

それはそれとして。今の職場で働き続けるなら、見知ったお子さんの訃報を聞くこともあるんだ…って事を思い知らされる出来事でもあった。

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