『金閣寺』は学生の頃、夢中になって読んだ1冊。
今にして思えば、どうしてそこまでハマってしまったのか不思議に思う。
人から「金閣寺って、どんな話なの?」と問われれば「吃音の学僧が金閣寺に放火する話」としか答えられないほど物語の流れを、綺麗サッパリ忘れてしまっているのだ。
当時は、あれほど繰り返して読んだのにもかかわらず……だ。
金閣寺
一九五〇年七月一日、「国宝・金閣寺焼失。放火犯人は寺の青年僧」という衝撃のニュースが世人の耳目を驚かせた。
この事件の陰に潜められた若い学僧の悩み――ハンディを背負った宿命の子の、生への消しがたい呪いと、それゆえに金閣の美の魔力に魂を奪われ、ついには幻想と心中するにいたった悲劇……。
31歳の鬼才三島が全青春の決算として告白体の名文に綴った不朽の金字塔。
アマゾンより引用
感想
物語の流れや、登場人物の名前などは忘れてしまっているのにワンシーンごとの描写は、目を閉じれば映像として浮かび上がってくるほどハッキリと焼きついていて、今でも解説できる。
最高に印象深いのは、女が陸軍士官に茶を振舞う場面だ。
鮮やかな緋毛氈のに座った女が薄茶を立てて胸をはだけて、自らの乳房からほとばしる母乳を薄茶にいれ陸軍士官に振舞う場面を読んだ時は、ほとほと、あっけにとられてしまった。
「この作者の頭の中って、どうなってるんだろう?」と思いながら緋毛氈の赤と、薄茶の緑と、母乳の白が、目の奥に焼きついてしまって「母乳入りの薄茶って、どんな味なんだろう?」とて物語の大筋には、あまり関係のないところが妙に気になってしまった覚えがある。
おかげで私は、薄茶を飲むたびに、この場面を連想するようになってしまった。
この作品は、京都が舞台になっているのだが私にとって、この作品の中で描かれている京都の寺社仏閣は実際、自分の目でみた京都のそれより、はるかに艶っぽいように感じられる。
たぶん、三島由紀夫の妄想世界としての京都に引きずり込まれてしまったからだろう。
真実は小説よりも奇なりという言葉があるけれど、ごくまれに、小説は真実よりも鮮やかな色を見せてくれる時もあるのだ。
そんな鮮やかな色の中で「金閣寺を焼かねばならぬ」と思い込む主人公の心に、いつしかシンクロしてゆき、主人公とともに金閣寺に火を放ち最後の場面で「生きよう」と思わされてしまったのかも知れない。
大掛かりなマジックにハメられたような、そんな感覚だったように思う。
もっとも、この作品を大人になった今、読み返したら違った感想が持てるのだとは思うのだけれども。
ネット用語で言うところの『脳内萌え』という趣のある作品だと思う。
作家が作った世界に、見事ハメられてしまったと言うか……しかし「ハメられてこそ華」だと思わずにはいられない。
むせかえるまでに濃厚で、味わい深い1冊だと思う。