高校2年生の娘から「お母さんが宗教を信じることって一生なさそうだね」と言われた。
私は一般的な日本人だと思っている。神社に初詣に行くし、死んだら仏教でお葬式。そのくせちゃっかりクリスマスを祝う…的な。神社でも寺でも教会でも頭を垂れるけれど「その宗教を信じているか?」と問われたら確かに違う気がする。
……だけど私は幼い頃「なんかそれ(神さま)っぽい物」に対する憧れを持っていた。高校は仏教系だったし、10代の頃は遠藤周作と三浦綾子にハマっていた。そして出家に憧れていた。
それなのに、どの宗教も「信じる」には至らなかった。そして今後、私が何かのキッカケで信仰を持つことがあったとしてもキリスト教系の何かを信じることは無いだろうと確信している。
基本的に私は活字大好きマンなので聖書も仏典も読んでみたことがある。その中で私がもっとも「無理だ…コイツらとは分かり合えない…」と感じたのは、新約聖書の中のルカによる福音書10章38~42節。有名な一説なので知っている人も多いと思う。
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
ルカによる福音書10章10章38~42節
自宅に客人が来て食事の支度に忙しく立ち働く姉マルタと客人と楽しい時間を過ごす妹マリア。姉のマルタはマリアに切れてイエスに突撃する。
この場面を読んだ時、おいおい。冗談はやめてくれよ。あなたの食事も弟子達の食事もマルタが作ってるんだよ?確かにあなたの話は尊いかも知れないけれど全員がマリアのように楽しく過ごしていて世の中が回っていくと思ってるの?そこは最初に「マルタさんありがとう」ではないのか?」
……と、激しい憤りに駆られた。私は幼い頃から完全にマルタ側の人間だったし、日本女性にはマルタ側に属する人が多いと思う。
実のところ、ここの部分の解釈についてすでに理解している。
- イエスはマルタを「間違っている」責めてはいない
- イエスはマルタ、マルタと名前を2回呼び、彼女と向き合っている
- イエスはマルタに自らの罪を気付かせるよう諭したに過ぎない
- イエスは良き方向をマルタに示している
……みたいな感じになるそうなのだけど、そこまで説明されたとしても「えっ?でも、イエスも弟子もマルタの作った食事を食べるんですよね?」と思ってしまうのだ。
ルカによる福音書10章38~42節を読んだ瞬間、私は「私がキリスト教を信仰することは一生無いな…」て本気で思った。51歳になった今でもこの場面を脳内で連想すると本気で腹が立つくらいだ。
キリスト教を知るキッカケが教会で神父さんか牧師さんかに伝え聞いていたら感想は違っていたのかも知れないけれど活字から入ったのが不幸だった。仏教にしても同じことで活字で読んでいると「あ…ちょっと無理」みたいなところに行きついてしまう。
キリスト教にしても仏教にしても文章化してしまうと、どこかしら女性にとって不利な解釈で出てきてしまう。時代背景がそうなのだから仕方がないとは理解しつつも多くの例え話において女性は愚かな存在なんだなぁ。
まずは自分の食べる物を自分で作ってみろ。そうしたら説教を聞いてやってもいい。
そもそも働かないイエスと13人の弟子達が働いている人達の世話になりつつ旅をする…って設定自体、私にはイマイチ理解できない。人間が生きていくために労働は必要。それぞれの人間がそれぞれに支え合い、働いてこそ社会が回っていくと言うのに働かない人達からどうのこうの言われたくない。
……そんな風に考えてしまう限り、私は信仰を持てない気がする。そしてこの話には続きがあったりする。→【続きはコチラ】