この作品は『泥流地帯』と『続・泥流地帯』の2冊1組。
私が初めて『泥流地帯』読んだのは、10代だった。当時は真摯に生きる人達が不幸に見舞われることに激しい憤りを感じたものだ。
しかし、今でも何か辛いことに直面した時に再読したくなる愛読書の1つ。
泥流地帯
大正15年5月、十勝岳大噴火。突然の火山爆発で、家も学校も恋も夢も泥流が一気に押し流してゆく……。
上富良野の市街からさらに一里以上も奥に入った日進部落で、貧しさにも親の不在にも耐えて明るく誠実に生きている拓一、耕作兄弟の上にも、泥流は容赦なく襲いかかる。
真面目に生きても無意味なのか? 懸命に生きる彼らの姿を通して、人生の試練の意味を問いかける感動の長編。
アマゾンより引用
感想
物語の舞台は北海道。時代は明治。主人公は心熱き青年。
主人公の父親は幼い頃に死に、母親は働きに出ていく。好きだった幼なじみは遊郭に売られる。家は貧乏。極めつけは、火山の噴火によって流れ出した泥流だ。
泥流のおかげで家も、畑も、大切な家族も、一切合切。流されてしまう。
次々と襲い掛かる不幸と災難。ちょっと手加減してやってくれ…と思ってしまうほど酷い話だ。
それでも、そんなに嫌な感じにならず読めてしまうのは主人公が筋金入りの好青年で、彼の周りにいる人達も、いい人のオンパレードだったりするからだと思う。
もちろん「嫌な奴」だって出てくるがその比率は、めちゃめちゃ低い。
作者の三浦親子は、クリスチャン作家で有名であるがこの作品も、なにげ~に宗教的な説教臭さが漂っている。なにしろ最大のテーマは『聖書』でも難解とされる『ヨブ記』なのだ。
- 人は、どうして辛い目にあうのか?
- いい人が、いい思いをできないのは何故か?
- 悪い人が、オイシイ思いをするのは何故か?
……などという誰もが考えるであろう素朴な疑問が作品中で、何度となく展開されていく。
それについての詳しい解釈や顛末は読んで戴きたいので、ここで書くのは止めておこうと思う。
「それでも俺は真面目に生きる」という主人公の兄「托一」の言葉が妙に印象的だった。
「いかに生きるか」ってことが大切なのだな…結局のところは。
私自身は特別な信仰を持たない日本人的仏教徒だけど信仰を持つ人の書いた作品を読むと普段は突き詰めて考えないことを考えることができるのが魅力だと思う。
たかが読書。されど読書。1冊の本に助けられることってあるなぁ…などと思ったりした。