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重ねる本と見上げる本

私は毎日、毎日、何某の本を読んでいる訳だが、ドップリ夢中になれる本に巡り会うことは滅多にない。たいていは「まあまあ面白かった」どまりだ。だからこそドップリ夢中になれる本に出会えた時の嬉しさと言ったらない。大げさではなく本気で「生きてて良かった」と思ってしまうくらいだ。

ドップリと夢中になれる本と言っても色々あるのだけれど、自分の中で大雑把に分類すると2つのタイプに分かれる。私の自分が登場人物にシンクロしてしまうような「重ねる本」と、自分の趣向とは微妙にずれるし、感覚的についていけないが好きだと思う「見上げる本」。どちらもそれぞれに特別な本には違いないのだけれど、位置付け的には大違いだ。

キリスト教ネタなら、遠藤周作は「重ねる本」だが、三浦綾子は「見上げる本」。

好きな女性作家さんで言うなら、有吉佐和子は「重ねる本」だが、中山可穂は「見上げる本」。自分に近い感覚のものにハマるのこともあれば、自分にはない感覚だからハマることもあるらしい。

先日、久しぶりに「重ねる本」と出会った。桐野夏生の『OUT』という作品。ミステリーは苦手ジャンルだというのに、こんなにもハマってしまった自分でも驚いている。ましてや自分とは全くかけ離れた生活をしている登場人物達ばかりだったのに、それぞれの登場人に入り込んでいる自分がいた。「重ねる本」を読んでいる時というのは、なんだか、こう……泣けてくる。人間ってのは所詮自分の尺度でしか物事を計れないのだなぁ……と思う瞬間でもある。

もちろん「見上げる本」への思い入れだって大したものだ。それらの本への憧れは、もしかすると「重ねる本」への愛着よりも激しいかも知れない。だが、しかし「見上げる本」を語る時は、どうしても腰が引けてしまう。「自分の感じているものは、しょせん表面的なもので嘘っぱちなんじゃなかろうか」と思ってしまうのだ。

重ねたり、見上げたりしながら、ずっと本を読みながら生きていくのだろうなぁ……と思う。

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白い木蓮の花の下で
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