「須賀敦子は、どうして嫌われないんだろう?」ということについて、いつも不思議に思っていた。
嫌味のない美しい文章を書く人ではあるけれど、それだけが理由だとは思えなかったのだ。どんなに素晴らしい作品でも、万人に好かれるなんてのは土台無理だと私は思う。
もしも万人に好かれる作品が存在するなら、たくさんの本は必要ないだろう。1冊あれば充分って話。
トリエステの坂道
あまたの詩人を輩出し、イタリア帰属の夢と引換えに凋落の道を辿った辺境都市、トリエステ。その地に吹く北風が、かつてミラノで共に生きた家族たちの賑やかな記憶を燃え立たせる――。
書物を愛し、語り合う楽しみを持つ世の人々に惜しまれて逝った著者が、知の光と歴史の影を愛惜に満ちた文体で綴った作品集。
未完長編の魁となったエッセイ(単行本未収録)を併録する。
アマゾンより引用
感想
須賀敦子の作品は、けっこうな数を読んでいる。どちらかと言うと好きなタイプのものだが心棒者になるほどでもなく。
重すぎず、軽すぎず、ほどほどに知識欲を刺激してくれるところが好きで今回もいつものように「上手なぁ」と思った。そして、ちょっとした発見をした。
「須賀敦子が嫌われない理由」についての一考察。
じっくり読んでみると、彼女のエッセイは「生きた文章」でもなく「生活を切り取ったもの」でもない。
どれもが「美しい思い出」なのだ。御夫君のことも、イタリアの人々のことも、美味しい食べ物のこともリアルタイムのものではなく、問わず語りのような思い出話なのだ。
そしてリアルタイムに極めて近いような時間軸でもって書かれている作品でさえ「思い出方式」とでも言おうか、そういうノリで書かれている。
思い出は美しいと決まっている。
どんなに嫌な過去でも、どんなに感じの悪かった人でも「思い出」として語られるとき、それらはすべて「懐かしさ」でコーティングされ「思い出」という美しいカテゴリーに、ぶち込まれてしまうのだ。
美しいものはより美しく。醜いものはマイルドに。思い出影響力って凄い。
そして「思い出」というものは他人が文句を言えるようなもではないのだ。だって「思い出」なんだもの。
事実であり、過ぎ去ってしまったことに文句を言ったところで仕方ない……てな訳だ。
「須賀敦子・思い出戦法」についての考察が、合っているか間違っているか、真偽のほどはともかくとして、気になっていたことが自分の中で解決できたので、なんだか嬉しい。
これからは「思い出」として作者のエッセイを読もう……今まで以上に楽しめるような気がする。