檀一雄のエッセイは「面白かった」というよりも「美味しそうだった」という感想を持つことの方が多いのだが、この作品もそうとう「美味しそう」な作品だった。
ただ他の作品とは一線を隔しているのは「美味しそう度」よりも「心地よさそう度」の方が際立っていたということだと思う。
漂蕩の自由
うろついてゆくその行先が、自分の居場所である―。
韓国へ、台湾へ、リスボンへ、パリへ。マラケシュではメジナの迷路をアテなくさまよい、ニューヨークの木賃宿ではコーンフレークをバーボンで流し込む。
世界を股に掛ける「老ヒッピー」檀一雄の旅エッセーをまとめた檀流放浪記。
アマゾンより引用
感想
檀一雄は根っからの旅人であるらしく、どの土地へ行っても、ごく自然に「自分の場所」を確保しているように思う。
木賃宿の一室だったり、場末の飲み屋のカウンターだったり。その土地の物を食べ、そこに居合わせた人と愉快な時間を過ごしている檀一雄は、実に楽しそうで気持ちが良い。
そして檀一雄の筆にかかると、朝鮮のオンドル(←セントラルヒーティングのようなもの)も、強烈に臭いペンギン達の世話をしながら生活する捕鯨船の一室も、それぞれに素敵に思えてしまうから不思議だ。
どの場所に置いても、しっくりと溶け込んでいるのだなぁ。檀一雄の描いた檀一雄自身は。
「地球単位で良かった探しをしているのか?」と思うほどに、どの場所も魅力的に描かれている。
この作品には「○○やもしれぬ」という言い回しが多く登場する。
往年の男性作家さんには、この言い回しを好む人が多いようだが、これが不思議と「しっくりくる人」と「そうでない人」がいるように思う。
年齢的な部分があるのかも知れない。若い人が使うと、いささか小生意気な印象。
ちなみに、この作品にはピタッとハマる感じ。そして女性作家さんには似合わない言い回しである。書き言葉上の「男言葉」なのだろう。
ちなみに私が敬愛する遠藤周作も「○○やもしれぬ」という言い回しを気に入っているらしく、どのエッセイにも1度は登場しているように思う。
それにしても、旅はいいよなぁ。放浪への憧れがいっそう強まった1冊だった。