『時には懺悔を』はテレビで映画CMがやたら目について気になっていた時、Audible版が公開されていたので聞いてみた。
CMの様子から「障害児をめぐる物語らしい」ってことは推察できていて、私自身が障害児支援の仕事をしていることから「せっかくなので内容くらいは知っておくべきか?」みたいな気持ちがあった。
今回は「本」とか「文学」としての感想を書くのがとても難しい。何しろ界隈にいる人間なのでピュアな気持ちで感動できなかったのだ。
なお映画は観ていない状態なので映画の出来については分からない。あくまで原作本の感想である。そしてネタバレ込の感想になるのでネタバレNGの方はご遠慮ください。
時には懺悔を
- 探偵業を営む佐竹は数年前に退社した大手の探偵社アーバン・リサーチに頼まれ、探偵スクールのレディース一期生・中野聡子の代理教官をすることになる。
- 佐竹と聡子は殺害事件を調べるうちに、9年前に起きた新生児誘拐事件にたどり着く。誘拐された子どもの父親・志賀は、当時犯人から身代金1億円を要求されたことを明かすが、実際に描かれるのは世間が想像する誘拐犯と被害者の関係とはまるで違う姿だった。
- 誘拐された子どもには生きていること自体が奇跡と言われるほどの重い障がいがあり、現在は「新」と名付けられ、誘拐犯の明野と二人で暮らしていた。明野は毎日新を優しく抱きかかえて食事を介助し、隣で添い寝し、外出もほとんどせず長年たった一人で新の世話を続けていて……
感想
「重症心身障害児を世の中の人に知って戴く」と言う意味において『時には懺悔を』は素晴らしい作品だと思う。普通に生きていたら「二分脊椎症」なんて言葉に触れることはないと思うし、障がい児(または障がい者)の家族の生活なんて想像することもないと思うので「こんな世界もあったのか!」みたいな驚きと感動があるかと思う。
私は児童発達支援センターという施設で保育士として働いているので、重症心身障害児と日々関わりがあるのだけど『時には懺悔を』で描かれている世界を読んで「リアル感があるなぁ」と感心してしまった。
例えば……新を海水浴に連れていった時の場面。水泳帽のエピソードで聡子は「子どもで遊ぶなんて」と憤慨するけれど、私は「違うんだよなぁ」みたいな気持ちになってしまった。知的障がいを持った子どもって妙なポイントでウケることがある。明野は新が笑うからあの動作を繰り返していた。障がい児者との関わりは大変なことが多いのも事実だけど、なんて言うのかな……言語化するのは難しいけれど妙に楽しい時間があるのも事実なのだ。そこには言葉を介さないで行う人間同士の交流がある。
しかし私は『時には懺悔を』を素直に肯定することはできない。これからめちゃくちゃ面倒くさいことを書かせてもらうけれど、この作品で子どもは大人の娯楽品になっているのが気に食わない。児童福祉の考え方だと「児童の最善の利益」が最優先されるし何よりも「本人の意思」が尊重されるのだけど、ここに書かれている問題はすべて大人の都合でしかない。
とても口当たりの良い作品に仕上がっているだけに性質が悪い。
明野に自首を勧めた後「新の世話は誰がするのか問題」が浮上した時、唐突に新の実の母親を説得して、新の実の母親が引き取ることになる流れは「いやいや。それは無いって」と呆れ果てた。世の中に障がい児を棄てる親はワンサカいる。実際、障がい児の虐待が発生するのは施設ではなく「家庭」なのだ。虐待を肯定する訳ではないけれど「虐待してしまうくらいに障がい児者の介護は想像を絶するキツさがある」ってことだ。
一度、子どもを棄てた人間に重症心身障害児の世話が務まるとは思えない。そして新の実の母には再婚した男との子どもがいた。その子達は唐突に「血の繋がらない弟のきょうだい児」になってしまった訳だ。ハッキリ言わせてもらうと、このオチは誰も幸せにならない。
もう後半の流れは「いやぁ~。この流れは無しだわ~」みたいな気持ちでページをめくっていた。
それともう1点。障がいを持った子どもを「神から授かった特別な存在」として書くのもどうかと思った。例えばインドなどは結合双生児や多指症等の「健常児と違う見た目で生まれてきた子」を尊ぶ考え方があるけれど、あれもまた本人の意思や人権を無視した考え方であるということを知って戴きたい。障がい児はパンダじゃないのだ。人を喜ばせるために生まれてきた訳じゃない。
世の中的に『時には懺悔を』は大絶賛されているようだけど、個人的には賛同できない作品だった。ちなみに映画は原作そのままではないと思うので、映画だと感想は変わってくるかも知れない……ってことを付け加えておく。



