これは作者、重松清の自伝的小説……ということになるのだろうか。
吃音の少年の成長記で、胡散臭さ炸裂といった感じだった。いっそ児童小説として書いた方が良かったのではないかと思う。
前振りと、オチを外して、1つ1つのエピソードだけを繋ぎ直していけば「ちょっと臭いけど、そこそこ素敵な児童小説」になると思う。
それなのに前振りで主人公=作者を匂わせてみたり、ラストに唐突過ぎるオチを持ってきたりしたことで、エピソードの持ち味を殺してしまったように思う。
きよしこ
少年は、ひとりぼっちだった。名前はきよし。
どこにでもいる少年。転校生。言いたいことがいつも言えずに、悔しかった。思ったことを何でも話せる友だちが欲しかった。そんな友だちは夢の中の世界にしかいないことを知っていたけど。
ある年の聖夜に出会ったふしぎな「きよしこ」は少年に言った。伝わるよ、きっと──。大切なことを言えなかったすべての人に捧げたい珠玉の少年小説。
アマゾンより引用
感想
重松清は「おとうさん作家」なのだと思う。子供がイマイチ生かし切れていないのだ。
重松清が自分の思春期を描いた(であろう)小説『かっぽん屋』は、そこそこ良かったので、ちょっと期待していたのだが、まったくもって肩透かしだった。
主人公もパッとしなければ、その周囲に配置された主人公の友人達も、ぜんぜん鮮やかに感じられなかった。強いて言うなら、主人公の父親と母親の関係はリアルだったと思うのだが。
「吃音」というコンプレックスが哀しみとして伝わってこなかったというのも残念なことの1つである。
主人公=作者を最初に匂わしてしまったことで、読者は「この吃音少年は、なんだかんだ言っても作家として大成するしなぁ」と思いながら読んでしまうし、何よりも主人公は、ちょっぴり内に篭っているだけで、いつも理解者がいるので、ちっとも可哀想ではないのだ。
孤独でもなければ、可哀想でもないコンプレックスなど読んでいても心に迫ってこないのだ。
章ごとにゲスト登場人物を出していったのもエピソードを薄くする要因ではないかと思う。どの登場人物も「通り過ぎていった」感じが否めない。もうちょっと作りこんで欲しかったな……と残念に思う。
作者の悪い点が集約されたような作品だと思った。
作者の「正しさ加減」とか「偽善者風味」を悪いとは思わないのだが、匙加減を誤ると嫌味な作品が出来てしまう……という見本のような。
次の作品に期待したい。重松清、嫌いじゃないけど、ちょっと惜しい。