先日、久しぶりに会った娘の友達が悪い方向に変わっていてショックを受けた…って話を書いた。
「あの母娘とは、もう付き合いたくない」と言う気持ちは本当だけど、それ以上に腹立たしさと哀しさで一杯になってしまった。
娘の友達は小さい頃からよく知っている。最近は疎遠になりつつあるけれど、幼少期はしょっちゅう一緒に遊んだし、一緒に遠出をしたり、お泊り会に招待したこともある。
母親ともたくさん話をした。
- 普通の子より身体が小さい
- しょっちゅう病気ばかりする
- 勉強についていけない
母親からそんな相談を受けるたびに、親身になって色々話してみたものの、私が提案した事は1つたりとも受けて入れはもらえなかった。
- 子ども身体が小さいのを気にしているのに、まともな食事を作らない
- …どころか子どもの容姿を貶していくスタイル
- 徒歩数分の場所にある図書館には死んでもいかない
- 子どもの勉強用に少年ジャンプを読ませてみる
- スマホがあっても調べようとする意欲がない
「水飲み場に牛を連れて行くことは出来ても、水を飲ませることはできない」と言うけれど、まさにそれ。やる気のない人に何を言っても通じないのだ。
「子どもに罪はない。親が悪い」などと腹立たい気持ちを持て余していて、ふと気がついた。私のこういうところ、学生時代とまったく変わっていないな…と。
独身時代、私は図面を描く仕事をしていたけれど、最初からその道に進みたいと思っていた訳ではなくて学生時代は教育関係に進みたいと思っていた。
頭の固いクソ真面目な学生だった私は教育実習も超真面目だったし、障害児施設でのボランティアも熱心にやっていた。
実習先やボランティア施設から「卒業したらうちにおいで」と誘われていたのだけれど、卒業した私はその道に進む事をしなかった。
教育や障害者に関わる世界って、素晴らしい先生や親がたくさんいる反面「こいつらホント、クズ。人として最悪。こんな親(先生)ならいない方がマシ」みたいな人間が意外と多い。
実習先でもボランティア先でも、理想と現実のギャップに「子どもが可哀想だ」と当時の私はガチ泣きした。そして「この世界にいたら私の心が持たない」と判断して、違う世界に進むことを決めた。
あれから二十数年……
学生だった私は社会の厳しさを知り、結婚して、出産して、そこそこ小狡い考え方の出来る大人になった。
娘の夏休みが終わったら、外に出て働くことを考えようと思っているのだけどその中で「私も大人になって柔軟な考え方が出来るようになったことだし、子ども関係の仕事もありかな?」と思っていたけど、今回の事でまったく無理だと確信した。
私の本質的な部分は学生時代からまったく成長していない。
頭の中ではちゃんと理解出来ているのだ。そういう現場で働くのなら、清濁併せ飲む心の柔軟さが必要だってことを。それでもなお子どもと向き合える人が本物なんだってことを。
……私にはとても出来ない。
あんなに可愛かった娘の友達が荒んだ少女になってしまった事が哀しくて仕方がないし「小学生でもあんなに荒れる事が出来るんだ」って事もショックだった。
だけど、他人の私にはどうすることも出来ない。
人間は意外と強く出来ているので、それでもどうにか育っていくし、みんな大人になっていく。
やっぱり子どもに関わる仕事には近づかないでおこうと思う。私も大人になったのだから、少しは成長したかと思っていたけど、人間の本質ってそう簡単には変わらないみたいだ。
私。まったく成長していない。