NHKで『赤毛のアン』の新作アニメ『アン・シャーリー』がスタートした。この作品、世界名作劇場の『赤毛のアン』を見た古きヲタク世代には不評みたいだ。
私は…と言うと実のところ『赤毛のアン』にはさほど思い入れがない。むしろ少女時代の私は『赤毛のアン』が大嫌いだった。
そこそこ年を重ねてからは「ヲタクとしても本好きとしても『赤毛のアン』をキッチリ履修していないのは恥ずかしいかも知れない」くらいの気持ちで『赤毛のアン』のシリーズに挑んだので最低限の知識はあるけれど、やはり深い思い入れは無い。
ちなみに。少女時代の私が『赤毛のアン』を嫌っていたのはアンに対して同属嫌悪的な感情を抱いていたから。アンが妄想を語るたびに子どもながらに「なんて恥ずかしい子なんだ…頼むから止めてくれ」て思っていた。
それはそれとして。高畑勲版の『赤毛のアン』のアニメは素晴らしいと思っているし少女小説としての『赤毛のアン』も評価している。思い入れの有無と作品の評価は別の話。
あんなにも突拍子のなかったアンなのに成長後はつまんない大人になっちゃったのは残念だけど、少女時代のアンが面白いキャラクターだ…ってことは間違いない。
だけどこの年になって『赤毛のアン』に触れた時、まったく別の感情を持つようになってしまった。それどころか「やだ…何これ…モンゴメリ最高かよ?」みたいな気持ちになっている。
今の私はアンにではなくマリラの気持ちにシンクロしている。
私の娘はアンのように妄想癖がある訳じゃない。特別な才能がある訳でもない体育会系。私自身はどうだったかと言うと自分では言いたくないけどアンのように文学が好きで妄想癖のある子どもだった。娘と私は思考のパターンが真逆に出来ているらしく、私は娘の思考を一時が万事理解できない。
娘を愛していないか…と言われるとそうではなくて「生態が解明されていない謎の生物との生活に困惑している」って感じ。
一般的に「母親にとって男の子は気持ちが分からないから難しい。女の子は共感できる部分がある」ってことを言われるけれど、もしかしたらその感覚と似ているのかも知れない。
そもそも我が子とは言っても別人格なのだから理解するなんておこがましい話ではある。
娘はこの春から受験生(高3)なのだけど相変わらず私を困惑させてくれている。娘は妄想好きなアンとは方向性が違っていて体育会系の自由な野人って感じ。人間は自分が生きたいようにしか生きられないのだから、彼女の好きにすればいい。心身健やかにいてくれたらオールOK。
私はこれから先もマリラのように困惑しながら娘の成長を見守っていくのだと思うし楽しみでもある。