『どろぼうの神様』を読んで憤りを感じてしまった。
作品自体がどうのこうの……というよりも「売れればOK」「売れるが1番」という姿勢で本を作っている出版社に対して。
ハリーポッターに並ぶ名作との触れ込みだったが、ハリーポッターの足元に及ばないどころか、爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいと思った。
そして何よりも腹立たしかったのが見開きの説明文と、本の内容がまったく違っていたということだ。
「大人になりたい子供」とか「子供時代を忘れてしまった大人」とかいう文句は確かに心そそられるものがあるけれど、だからって何でもかんでも、そういう言葉で飾ればいいってもんじゃないだろうに。
どろぼうの神様
12歳の少年プロスパーと5歳になる弟のボーは、読書好きの少女ヴェスペやその仲間たちと、廃墟となった映画館で暮らしていた。
兄弟は、2人を引き離そうとする伯母夫婦から逃れるため、ヴェネチアまで家出してきたのだ。
そんな身寄りのない子どもたちのリーダーは「どろぼうの神さま」と呼ばれる少年スキピオ。スキピオは、金持ちの家や美術館に忍びこんでは、高価な品々を盗み出す怪盗だ。
しかし、伯母夫婦から依頼を受けた探偵ヴィクトールの出現によって、子どもたちの生活に、少しずつ変化が訪れる。
アマゾンより引用
感想
『どろぼうの神様』はイタリアが舞台の児童文学。
孤児だの家出少年だのが使われなくなった映画館で生活をしていて……てな話だった。
中盤から「乗ったら子供が大人に、大人が子供になるメリーゴーランド」ってアイテムが出てきてファンタジー色が強くなるのだが、何もかもが中途半端だった。
なにしろ「子供だけで暮らしている」といっても『長くつ下のピッピ』みたく正当に暮らしているではないのだ。
『どろぼうの神さま』というタイトルからに相応しく、どろぼうで生計を立てて『黒い兄弟』のように自力で生きている訳でもなかった。
主人公の「どろぼうの神さま」は大金持ちのお坊ちゃま。自分の家のものを持ち出して売ったお金で生計を立てていたのだ。
しかも「どろぼう」の罪は召使に着せている……というオチまでついて。
「大人になりたい」とか「大人なんて大嫌い」という葛藤が書かれているのに、作品中で、その問題は何1つ解決されず、子供達の成長もないまま物語は終わってしまっていた。
しかも「大人は子供に」「子供は大人に」なって元の姿に戻れないまま。
子供になった大人は、それなりに生きていけるだろうが、子供の心のまま大人になってしまうことが幸せだとは思えない。
それなのに、大切な部分を無視して「めでたし。めでたし」で締めてしまって良いのだろうか?
子供の心のまま大人になった主人公は父親との不仲にウンザリしていたとはいえ、彼の父親は理不尽に子供を奪われた訳でありその辺のことを考えると「それって、どうよ?」と思わざるをえない。
文章だってそれほど面白いとは思えないし、肝心要の話は支離滅裂で筋が通っていない。
子供達の友情や成長がみられるでもなく、理屈抜きで楽しめるような内容でもない。
だいたいからして後味が悪過ぎである。
この作品に「名作」だの「絶賛」だのといったコピーをつけて売り出した出版関係者の良心は、どうなっちゃっているんだろう。
「子供が大人になる」とか「子供だけでの生活」とか「仮面をつけたどろぼう」とかシュチューションだけでも売れそうだってことは分かるけれど、だからって「なんでもOK」ってわけではないと思うのだ。
本当に面白い本を出さなければ活字離れは、どんどん進んでいくだろうに。
私は自分の感性に合わない本だからって頭から否定してかかるつもりなど毛頭ない。
今回感じた憤りは「作品に」ではなく「出版の姿勢に」なのだ。
道理の分かった大人に向けての本ならば「判断はご自由に」と投げてしまっても良いだろうが、子供の本でそれをするのはルール違反だと思う。
私の考え方が堅いだけなのかなぁ。
私は頭から湯気をたててプンプン怒っている訳なのだが、この作品は映画化が決定したそうな。
ある程度原作を離れての映画化ならば、意外と面白い作品が出来るかも知れないとは思うのだが……
「面白くなかった」と書くのは不毛だなぁ……と思う。
自分自身の読書の記録してはじめた読書禄だが、不愉快を記録する必要はあるのだろうか?
レンタル日記で書いていた頃のように「基本的に面白いと思った」についてだけ書いた方がいいような気が。
……などと考えはじめたら読書禄を書くことの意義さえあやしくなってくるのだけれども。この執着心はどこから来るものなんだろう……いささか滑稽。と言うよりも、むしろ痛い。
とにかく今回は色々な意味においてウンザリした1冊だった。