日本には『桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿』と言う言葉がある。これは樹木の剪定方法として正しいそうだけど、私は庭木に梅や桜が植えられているような家で暮らしたことがないので、今まで『桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿』を実感しとたことはなかった。
しかし今年は50年間生きてきて初めて『桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿』と言う言葉を実感した。
我が家は築50年の北向き狭小住宅だけど向かいのお宅は日本庭園が自慢の立派な家だった。「だった」と過去形になっているのは、住んでいた人が亡くなって、お庭が荒れ放題になっているから。
向かいのお宅のご夫婦がご存命の時は年に2回以上庭師が訪れて、木々の手入れがされていた。日本庭園と言っても、特に松と椿と梅がお好きとのことで、毎年早春の頃は梅が見事に咲いていた。
ところが、ご主人も奥様も亡くなった後、家はそのまま放置されていて立派だったお庭は荒れ放題になっている。落ち葉を掃く人もおらず、伸びすぎた木々を切る人もいない。
通りに面したところに咲いていた梅は枝が伸びて大きくなっているにも関わらず花の数が激減している。剪定をしなくなってから数年間はそれなりの数の花が咲いていたけれど、今年は目に見えて花が咲かなくなっている。
咲かなくなってしまった梅を目の当たりにして初めて『桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿』と言う言葉を実感した。
庭が広くて樹木や花壇のある家って浪漫があるけれど、あれは相当に贅沢な趣味なのだなぁ。主を失った庭の松は伸び過ぎて枯れつつあるし梅は花をつけなくなってしまっている。
自分ちの庭でなはいけれど、美しかった向かいの家のお庭が荒んでいくのを見るのはなんだか寂しい気持ちになってしまう。
向かいの家の奥様が亡くなってからと言うもの、道路に落ちてくる梅の実を拾うのが大変だったけれど、今年はきっと梅の実の数も少ないのだろうなぁ。
今の日本は家が余っていると言うけれど主を失って荒れ果ててしまった庭はあちこちにあると思う。もったいないように思うのだけど私にはどうすることも出来ない。